雨の中を泳ぐ日々

思いつくがままの気分の記録

いつまで日野のことを覚えているだろうか? 〜「墓場、女子高生」のこと

少し前の話ですが、下北沢「ザ・スズナリ」に別冊・根本宗子第7号「墓場、女子高生」を見に行きました。見たのは初日の10月9日なので、ちょうど一ヶ月前です。そのあと他の芝居も見ていますが、自分の中には結構印象強く残っています。ラグビー・ワールドカップのことをまとめて書く前に、この芝居に関して少し感想を残しておきたかったので、ちょっとまとめておきたいと思います。

以前、この演目は乃木坂46のメンバーで上演されています。そのときにも思いましたが、日野ちゃんという役の存在が自分の中ですごく心をざわつかせるというか、なんというか。後述しますが魔術で生き返ってしまう彼女が放つ言葉の印象が、あまりにも強すぎて自分の中にはあのセリフの中に込められた意味合いの多様性がすごいなと、思い出すたびに感心しています。

根本宗子さんにしてはめずらしく自前の戯曲ではないものを演出するということで、どうなるかなと思いましたが、本当に素晴らしい作品を見せてもらえました。

まず劇場の大きさ、今回はスズナリで、これがまた良かった。あの大きすぎない空間での動きが、この芝居の密度の濃さを実感させてくれます。セリフ一つの迫力もガツンとくる。最近は集客の多い舞台を見る気が多いこともあってか、スズナリのような空間で見ることができて、演劇の迫力みたいなものをガツッと味わった感じでした。

演出での面白さは、例えば「想い」の使い方。個人的にはラストが日野ちゃんでなく、想いが出てきてコーラを飲んだときに、想いという役柄の意味を強く感じました。あそこで日野ちゃんが出てくるのではなく、想いが出ることで、死後の世界と現実の世界の境目にどう位置づけられているか?を強く印象づけた部分です。

日野ちゃんの「みんなのせいで死ななければならないほど、仲良くはなかった」、本当にすごいセリフです。この言葉が放たれる瞬間の空気は、なんというか人のつながりというものを真っ向から切り崩すのと同時に、このセリフを言ったあとの日野ちゃんの動揺がすごくその言葉のあとの揺り戻しを作っていて、大好きな場面です。

日野ちゃんは同じ合唱部の仲間に気配も見せずに自殺をしている。仲間はみんな自分のせいで自殺したのでは?という意識を抱えている。そのある種の優しさでもあり、傲慢さを一瞬にして打ち消すこの言葉は、いまを生きているいろいろな人の関係性そのものという気もします。友情はないわけではないが、決してすべてをさらけ出す関係でもなし。連帯と個がうまく使い分けられながら、その社会を作り出している。日野ちゃんと合唱部の仲間は、上っ面ではないが、同時にその一線を引いた中で、少なくとも日野ちゃんの中ではそういう社会だった。そこに思いが行くと余計に合唱部での出来事などを描いている場面との対比が生きてくる。この楽しそうな時間は本物でもあり、上っ面でもある。そういう距離感がうまく出ていたなあと。

日野ちゃんは生き返させられたあと、自身の自殺への贖罪を抱えた同級生や他の人へ、自分が死んだ理由を答えてもらいます。それが本当かどうかではなく、それがある事自体が生きている人の抱えるものになる。そのことに想いをはせるたびに日野ちゃんの霊は存在する。そう日野ちゃんが消えることはない。

いつまで日野ちゃんは存在し続けるだろう?

その人を思う気持ちが現世にある限り、向こう側で霊は生き続ける。日野は現世では存在したくない(醜い世界への嫌悪)が、向こう側では生きている。日野ちゃんという存在が作った世界では、生き残った側には喪失感を持ったもの、先生のように怒りの対象となるものなど、様々な形を残しつつ時間とともに変質していく。その変質の一端がラストのシーンですが、誰が日野を思い続けるか、、、、案外先生かもしれません。