雨の中を泳ぐ日々

思いつくがままの気分の記録

舞台「罪と罰」1月27日 振り替え公演


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先日、渋谷Bunkamuraシアターコクーンでの舞台「罪と罰」を見てきました。

実はもともと1月22日のソワレでしたが、出演者の体調不良で公演中止に。残念ですが、こればっかりは仕方ない。最初はそのまま払い戻しの予定でしたが、仕事の都合をうまくつけて行けそうになったので、日曜日の夜公演に足を運びました。

原作はすごく昔に読んだから、正直忘れている。むしろ自分の記憶で残っているのは、野田秀樹さんの「罪と罰」です。主人公が女性になった演出の作品の印象が残っていて、正調というか原作を中心とした演出で見るのは初めてかも。

そういう意味でも新鮮でしたし、いろいろと面白さを多く発見した作品です。

まだ公演が続くので、感想は畳んで残しておきたいと思います。

 原作の印象は利己的な主義を持つラスコーリニコフが、殺人を犯したあとにソーニャとの出会いで自らの行いを悔い改め、悔恨の後に自首し、シベリアでソーニャとの愛をかけがいのないものとするというイメージが残っています。

もしかしたら、今このテキストを読み返したら、全く違う印象になるかもしれませんが。

1.配役について

今回のフィリップ・ブリーンさんの演出はそのあたりにアレンジがされているなあという印象です。個人的には、ラスコーリニコフが発表した論文に対する解答という部分が、三浦春馬さんの演技に大きく盛り込まれている気がしています。殺人を起こしても英雄視される人もいる、そうではない人もいる、という考えに対して実際殺人を犯した側に回ったラスコーリニコフは、どういうことに気が付かされるか?結果、ラスコーリニコフは自分が殺人を犯しても、その行動が正当化される側にならないことに気がつく。しかしそのことを受け入れることができないという葛藤に憔悴していきます。

三浦春馬さんの演技は、その殺人そのものに対する感情のうねり、殺人の動機に対するあさましさ、自分が何者であるかを実感したことが混ぜられていました。ベルがなると気絶する、殺人行為に対する強い論調、目的の正当性、ソーニャへの最初の告白でさえも様々な感情が入り混じったセリフが続きます。ただし、リザヴェータを殺したことがラスコーリニコフに深く残る重石であり、それがソーニャへの思いへとつながる。三浦春馬さんの演技は、どちらかというと、選ばれた非凡人という意識の高さよりも、社会からの落伍、あの塒からいかに抜け出すか?という意識と環境とのギャップであったり、そのことによる卑屈さが第一幕の演技では感じられました。

声がだいぶ傷んでいたので、大丈夫かなと思いましたが、背の高さや手足の動き、姿勢など舞台上でも見栄えしますし、感情の露出における言葉の重さは十分に感じ取ることができました。約三時間半の舞台ですが、ラスコーリニコフの苦悩をその時間の間ずっと感じ取ることができるので、それがラストシーンにきちんとつながっていたので。

演技として良いなと感じるのは、三浦さんなりの像と、演出家の求める像がきちんと重なっている感じがしたところです。上でも述べたようなラスコーリニコフの葛藤が、きちんと伝わる。単に苦しいとかいう言葉以上に、動きの間だったり目線など演劇的な手法における観客への表現をきちんと実践できている。言葉に寄り添う感じになりそうなところが、そうではない演技で見せようとする意識の高さが流石だなと。それだけにあの声はちょっともったいないというか、声がもう少し通る感じだったらもっと迫力が出ただろうなと思います。

でも、その分を差し引いても、素晴らしい演技だった。これは間違いない。あれだけのセリフ量をあの速さで語り、きちんとラスコーリニコフをものにしている。演劇としては当たり前のようで実際そうではない。役者が演じることで人と役が同化する部分が見え隠れするものですが、三浦さんの演技は、ラスコーリニコフの苦悩が三浦さんの肉体を通じて、観客に浸透してくる、、、そんな感覚を抱かせるくらいの気持ちを感じました。他の方も感想で書かれていますが、あの「眼」が良いです。人を見るとき以外の空虚な目線の動き、単にふらつく演技以上にあの「眼」が精神のバランスの綱渡りを観客側に伝えていたと思いました。

 

大島優子さん、どういう演技になるのか興味がありました。ドラマなどでは見たことがありますが、舞台は初めて見ます。未知数だったのとある意味「マリア」のような存在であるソーニャの「癒やし」がどこまで描かれるか?ということもあったので。

彼女もとても良かったと思います。ソーニャという役柄へのスタンスがきちんとしていて、一貫してみせるものが「売春婦だが自分の目的、信仰は守る」というものが感じられたので。声が若干高めなときに引っかかる発声になりますが、それを含んでも、十分な存在感でした。ラスコーリニコフの告白を受けるところでの感情の見せ方が、やや弱い感じはしましたが彼女の問題というよりは演出上の部分かもしれません。ラスコーリニコフと二人での会話になるシーンが多く、彼にとっての「癒し」であり、「支え」としての存在がきちんと伝わる演技でした。必要以上に感情のほとばしりみたいなものが、特に二人のシーンで強調されすぎないことがよかったのだと思います。

ポルフィーリ役の勝村政信さん。いい配役でした。もちろんラスコーリニコフを追い込む尋問というか会話も見事なリズムですが、群衆の中でタバコを吹かしながらラスコーリニコフを俯瞰している演出がすごく良くて、ついつい中心の演技は違う人でも、ちらっと見てしまう。

二幕はじめあたりのラスコーリニコフとの会話は、計算され尽くした尋問を観客に意識させつつ、かつ意図的な自然さと不自然さを会話のリズムで見事に感じさせる芝居。初めのほうがコミカルな動きは、第三舞台出身者ならではの軽快さ。ああいう緩急のつけ方が見事です。後半のラスコーリニコフへの犯罪の指摘は、ラスコーリニコフにどうするべきかの選択を促す重さを十分に持ったものでした。あそこで自首をあえて強く進めずに、選択を与えるところがこの捜査官らしさ。三浦さんも勝村さんもちょっとセリフを噛み気味だった場面があったのですが、それ以上に捜査官と犯人という距離感がうまく感じられました。そうすれば噛みとか些細なことに感じられるもんです。

ソーニャの母、カテリーナを演じた麻実れいさん、二幕の特に気がふれた感じあたりからは、さすがの見せ方。前半は印象が薄いのですが、最後の亡くなる直前の状況までの演技で、境遇の怖さというものが伝わってきます。基本、ロシア文学をベースにした作品って、本当はその社会的背景などをきちんと知っておくほうが作品の人物理解によいので、なるべく知識をつけておこうと思っています。今回も当然帝政ロシアの時代の話なので、貧富の差や市民生活に関しては、ある程度の情報を持っておかないとラスコーリニコフの境遇含めて、理解が深まらない部分はあると思います。カテリーナの演技は、そのあたりを越えて、自身の出自を含めた自慢とその挫折みたいなものが、夫の葬式の中にうまく集約されてました。この辺りも演出と役者の上手さだなと思います。

 

ドゥーニャ役の南沢奈央さんは最初声の感じが違っていて気が付かなかった。背丈も小さめという印象があったのですが、結構大きく見せていたので、驚きでした。少しセリフが走り気味な時もありましたが、家族のために犠牲になることをいとわない妹をうまくまとめていたと思います。時間の中で仕方ないのですが、妹の心情そのものを感じる場面が少なく、最後のスヴィドリガイロフとのやり取りが一番ドゥーニャの見せ場なので、そこで印象に残る部分はあるのですが、正直この場面もスヴィドリガイロフ役の山路和弘さんがうますぎて、、、、という部分はあります。

 

今回、インパクト強かったスヴィドリガイロフ役の山路和弘さん。ドゥーニャへの屈折した愛情、狂気とのすれすれ感、ラスコーリニコフへの脅迫など、場面で様々な顔を見せますが、どこでもその顔を強く印象に残します。山路さんはもともと声が通るのですが、それ以上に狂気と愛情の揺れ動きがすっと変わるうまさ。特にドゥーニャとのラストのシーン、彼女への屈折した愛情、その見返りを求めつつ、得られないと分かった時の怒りと寂しさ、そして破滅への歩み、、、この一連の流れが山路さんの演技ですっとつながっていく。セリフの間や強弱でそういうものが見せられるので、やはりさすがだなと。こういう役どころに山路さんのような役者を置けると、作り手も安心できるだろうなと思います。

2.演出について

先ほどラスコーリニコフのところでも少し書きましたが、ソーニャとの出会いでの悔恨・救いという側面もありますが、それ以上に「自分が何者でもないことを受け入れることの恐れ」みたいなものが、非常に強く感じられたラスコーリニコフの造形だったと思います。そして今回階段状のステージセットに配役が「群集」としている状態の中で、各場面が積み重なり、そして伴走者が舞台上で生演奏で音を紡いでいく。

まず「群集」として存在する部分は、個人的にはラスコーリニコフの存在は「無数の一人」であることを象徴しているように見えて、そして今回の殺人が群集の中で起こる一つの出来事であるというイメージを強く持ちました。つまり崇高なる目的意識ではなく、結局貧困であることが殺人の目的の主題であり、ラスコーリニコフの持つ選民意識はその隠れ蓑でもあるという意図があるのかなと。だからこそラスコーリニコフはソーニャの自己犠牲に対して、感情を揺さぶられつつも、自分の住む部屋が「牢獄」であるかのようなセリフを吐きながら、自白への道を歩む。ラスコーリニコフの自分が何者か?への自覚が3時間半かけて形成されていく状況は、三浦春馬さんの演技とともにいい作り方だなあと思いました。

個人的にはあの自白するラストまで「自分が金貸しの老婆と、その妹を殺しました」としっかり口にしないことがよかったと思います。そのセリフをその前の警察官吏の「あなたは立派な方になりうる」というセリフとの対比で自白させることに、一層の悲壮感が漂います。何しろ「何物でもない」ことがわかったからこその自首なので。

生演奏も必要以上に音が多くなくて、その分、役者のセリフや動きに注目しやすい部分がよかったです。さらにその音を群集が出すことで、市民生活の風景の一部として切り取った部分を、個人的には感じました。ラスコーリニコフが「多数の中の一人」であることが感じ取れます。サックスの音は配役の感情の動きがつかめる効果もあって、非常に良い使い方でした。

そして、ラストのシベリアのシーン。逮捕されてシベリアに留置されたラスコーリニコフが労働するシーン。上半身裸で鎖につながれた状態で労働をします。その時に運ばれてきた木材が、十字架を描くように配置されます。そこに汚れた背中を見せながら労働するラスコーリニコフのところにパンを差し入れるソーニャ、そこに差し込むステージ裏からの明るい光、ソーニャが差し出したパンを口にするラスコーリニコフ

ここまでのラスコーリニコフ、ソーニャの抱えた苦しみを消して、救いへの扉が開かれているラストに思えます。もちろんキリスト教的な救済という部分はもちろんのこと、ラスコーリニコフは自身の存在の確認であり、ソーニャは誰のために生きていくか?という確認でもあります。光の扉というと陳腐な表現かもしれませんが、でもあのラストは3時間半以上かけて描いてきたラスコーリニコフの次の人生への扉であり、舞台上で描かれた、あの牢獄のように立てこもったアパートの一室の扉との対比という点でも印象深いです。

セリフ量はかなり多く、役者さんは大変だったと思います。ただ決してそれでもこの芝居では多すぎて困難ということではなかったと思います。むしろ舞台上でいろいろ起こる出来事の中で、セリフの多さがいろいろな状況を保管していくうえでよい方向に働く側面もあったと思います。場面によってリズムが単調になるところもあるので、そのあたりは難しいところかもしれませんが。

個人的にはもう少し質屋の老婆の強欲さが、強く出てもよかったかもしれないと思います。ただそうすると、ラスコーリニコフの殺人の動機が肯定的に裏付けられる可能性もあるので、バランスが難しかったかもしれません。あとはソーニャの自己犠牲に対する自身の思いみたいなものが、強く出てもよかったかなと。その分、ラスコーリニコフが受ける感情の動きが強く残ったかもしれません。でもこのあたりは好みかも。

全体的には見に行って正解だったという作品。先に「グレートコメット」の感想をまとめようかと思ったのですが、この作品の感想を、まだ頭の中にいろいろと湧いているあいだに残そうと思ったので。

急病で仕方なかったとはいえ、振り替えという形で対応した役者さん、スタッフの皆さん、お疲れさまでした。いい演劇を見せてもらったと思います。