雨の中を泳ぐ日々

思いつくがままの気分の記録

NODA・MAP 第22回公演「贋作・桜の森の満開の下」の感想


f:id:unimasa:20181116021609j:image

先週の木曜日に、東京芸術劇場プレイルームで見てきました。

この作品は夢の遊眠社での再演千穐楽日本青年館で見て、その後は新国立劇場での上演を見ています。遊眠社の初演を見ていないのは残念。上杉祥三さんが出ているときなので実質劇団時代のベストメンバーでのものだった。その頃はまだ演劇にあまり興味がなかったので、仕方ないです。

今回は豪華なキャストも相まって、チケット確保が大変でした。あらゆるプレイガイドの先行予約が軒並みアウト。確保できないままで、さすがに諦めていましたが、土壇場で補助席販売などがあったおかげで無事に確保。なんとか滑り込みで見ることができました。

いや、安心したというのが事実です。今までで最多の10連敗ですかね(笑)

やはり人気のお芝居はこういうものかもしれません。同じような状況で「日本の歴史」も確保できませんでしたけど。

さて、前置きはこれくらいで作品の感想をまとめておきたいと思います。以前見た作品との比較も多少あるかもしれませんが、演出上の細部が抜けているのも事実で、思い出しつつもあくまで今回の公演の感想というスタンスをベースにまとめておこうと思います。

例によって畳んでおきます。

 最初は耳男が森に入り込み、桜の木の下で考えたいことを鬼と共に、いや独り言のように語るシーンから始まります。そこに般若の面をした鬼(夜長姫)が来て、耳男と語りながら物語が動いていきます。そこで耳男の師匠は桜の木の下で、狂ってしまい、蚤で自らを刺して死んでしまい鬼になる。耳男は、飛騨匠と間違えられて、ヒダの王の元に連れて行かれる。同じく盗賊のマナコも、自らが殺した飛騨匠が持つヒダの王の招待状を手に王の元へ。

やがて耳男、盗賊のマナコ、朝廷に反旗を翻す謀反を狙うオオアマの三人が、ヒダの国の姫である夜長姫の護身仏を彫ることになる。しかしマナコは最初はうまい話に乗っただけから、オオアマの企みにのり、謀反に加担して儲けようと企む。そして夜長姫は、耳男の耳を奴隷であるエナコに切り落とさせて、その光景を見て笑う。

この一連の流れは、この戯曲のモチーフである坂口安吾さんの「夜長姫と耳男」の中にある部分になっています。こうやって解説のように書いてしまうと面白さ半減だなと自分でも思いますが、実際はエナコと耳男の掛け合いや、夜長姫の残虐性と無邪気さが非常に際立つシーンです。エナコに耳を切らせて、痛がる耳男を見て楽しむ。しかし一瞬、切られた耳男に憐れみの表情を見せる。愛憎がまじりあったこのシーンでは残虐性とともに、それでも耳男が夜長姫への恋慕のような気持ちを抱いていること、同時にその残虐性に対する怒りも持ち合わせているところが、交互に描かれていることがポイントです。その気持ちの揺れを妻夫木聡さんが見事に演じています。最初、野田さんの作品「キル」で出たときは、若干細さも感じられた気がしますが、今や堂々たる演技。特に感情の起伏をうまく使い分けて見せているなあと思います。そして夜長姫の深津絵里さん、どうしても初演・再演の毬谷友子さんの迫力が際立ってしまう作品ですが、今回、深津さんを見ていて比較などを意識せず、夜長姫を見ていたと思います。時間が経って、自分の中で新鮮な視点で見ているってこともあるでしょうが、深津さんの迫力がそのまま自分に来たんだなという感じです。

そのあと早寝姫とオオアマのデートシーン。早寝姫は門脇麦さんですが、もう少しいろいろな演技を見たかったなあと思いながら。ドラマとかでもかなり幅広く役を演じていて、そういう部分が舞台ではどう出るのか?は気になっていたので。早寝姫の役はこの場面におけるウエイトが大きくて、見せ場としても印象づけとしてもこの場面でイメージが付きやすいキャラですが、そういう意味では、そのイメージを崩さずにふるまったのかなと思います。KERA・MAPなどにも出ていたので、もっといろいろな作品で見てみたい方ですね。

そして天海祐希さん、久々の男性役ということですが、なんかそういうこと関係なく「天海祐希」でしたね。存在感そのものが。まあ凛々しいという言葉がそのまま。華がある方が演じるオオアマはやはりいいですね。以前の入江雅人さんが華という点ではちょっと違うかなと。むしろその前の若松武史さんがのちに帝になった時に貫録があったなと思います。今回、天海祐希さんをキャスティングしたことで、後半の帝になった時により気品さとかが際立ったと思います。いい配役でした。

ここでオオアマの目論見が露見し、そこにマナコが腹黒さを見せながらその目論見に乗る。マナコ役の古田新太さんはさすがのうまさ。セリフの迫力が本当にマナコらしい狡猾さを実感させます。芸達者ということしかほめようもなく、以前もマナコ役でしたが、羽場裕一さんの時のような軽快さはやや欠けつつも、迫力あるマナコを演じていました。新感線で見ても野田地図で見ても、うまさは引き立つものです。

その後、耳男は夜長姫と一緒に夜を遊び、そして朝を迎えるころに早寝姫が首をつって死んでいることが描かれる。殺したのはオオアマで、ヒダの王の心の光を奪い、謀反を守るためです。そして三人が彫った仏像の中で、耳男は夜長姫に対する憎しみから、鬼の像を彫っていた。そして蛇を生き血を像にかけ、自身は肉を食らい、その蛇の亡骸を屋根からつるしながら、、、満開の桜のように。

三人とも飛騨匠でもなんでもないので、護身仏自体が本質的には「贋作」であるわけです。しかし三年間彫ることで、彫った人の気持ちが宿る。それがラストの夜長姫の言葉にもつながっていきます。

夜長姫はその耳男の像を気に入ったというが、その時の喋り方に耳男は、自らの耳が切り落とされたときと同じ空気と恐怖を感じ、夜長姫の笑顔を彫らせて欲しいと願い出る。

耳男が作った鬼の像は、丑寅の鬼門に置いて、その門からオオアマは鬼を引き入れて謀反を成功させようとする。その時マナコはオオアマにも、朝廷にも刀を渡していることで、謀反が凄惨を極め、前半は終了していく。

後半は無事に謀反が成功し、鬼は人になり、オオアマは帝になり、夜長姫は妃となる。耳男は帝から名人という称号を与える代わりに、妃の顔を元にした大仏を彫ることになる。しかし夜長姫に今、お前が彫るものには何の力もないと告げられる。謀反人として罰せられたマナコは追放処分となる。帝の言う「鬼を愛するより国を愛する、新しい国には鬼は作らない、鬼門は封鎖し、缶蹴りの缶は蹴らせない」という意味をかみしめると、国という枠組みの中での施政者の目指すものが何か?という部分に大義名分と深謀遠慮の二つが見えてくる。だからこそのマナコの言う「辛抱」と「棒」なのですが。そして、国の安定の象徴となる大仏の眼が開けば鬼をにらみつけて、鬼門は開かない。つまり国は開かれないという結末を迎える。マナコたちは首を切り落とすことで、再び鬼門を開き、缶を蹴ることで新しい国づくりを興すことを目指す。

このあたりからは坂口安吾の話から外れ、どちらかというと、野田さんが思う国という枠組み、国の成り立ちに対するいい加減さというか、しょせんはそんなもんだっていう揶揄も含めた心が見え隠れしています。このあと帝は耳男に切られた耳を返す。その耳に聞こえるんものは、称賛ではなく憎しみや怒りの声。帝は耳男を鬼とし、そのことを利用して国を治めることを目論む。

耳男は鬼として逃げてきますが帝は追手を差し向けそこで鬼ではなく人を殺しくていく。しかし帝はそこまでは権威の及ぶ範囲、国境として定めていく。そこに権力っていう一つの力の見せ方を感じます。でもそこが批判というよりも、それが権力の歴史なんだと。だからこそ後半の始まりすぐに、日本書紀古事記の改竄などは当たり前っていう表現にもつながっているんだと思います。

結局、オオアマはただの施政者に過ぎず、俗物的なもののような印象が描かれる。そして大仏の完成と共に、耳男はオオアマの企みによって自身が鬼として、同時に世の中の鬼を封じるための人身御供とされてしまう。耳男は逃げ、マナコはその耳男を守り、耳男は夜長姫と桜の森の満開の下へ向かう。耳男を追いかけた先で起こる虐殺に夜長姫は笑い、その夜長姫がいることで「人」を守ることができないと考えた耳男は、その手に蚤を持つ。

夜長姫は結局、人の世の鬼としての存在となり、その鬼を耳男が結果的には成敗する形になります。実際は成敗ではないのでしょうけど。そして耳男は桜の森の満開の下で考える。彼が森の木に彫った鬼が、新しい道を示す道標にまり、「帰りはヨイヨイ」となるが、耳男は座り込み考える。そう消えることなく、自らの意思で考え続ける、、、

 

なんかまとまりなく筋書きを追いながら書いてきましたが、満開の桜が見せた風景の先にあるものに、野田さんは「国」という枠の儚さや、その国を治めることの孤独を絡めて、でも一番描きたいのは耳男と夜長姫の思いなんだと思っています。その愛憎が混じったラストシーンが、満開の桜の木の下で、まさに安吾が描きたかった「孤独と虚無」となる。ここは夜長姫と耳男が「桜の森の満開の下」における盗賊と女房の関係性に置き換えられ、盗賊は鬼婆という幻想を桜の木の下で見ることで女房を殺すが、この舞台では夜長姫をあらためて鬼と見て耳男は蚤を手に持つ。耳男にとっては幻想でもあり、現実でもある。

ラストの夜長姫の言葉は、坂口安吾の原作にもそのままあります。

「好きな物は呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして・・・」

この言葉に、対象に対する激しい感情を持ってこそ生まれるものがあるという思いが伝わります。この作品でも夜長姫と耳男の関係性は、この言葉に集約されているかと。

耳男が夜長姫を殺したことで、耳男は「孤独」を得る。同時に耳男が、その木の下で座りながら叫ぶ「いやあ、まいった。まいった」が誰に向けてのものなのか、どこに向かうものなのか、、、そんな余韻を残して終わっていくエンディングが無性に切なくなって、自分はこのお芝居を見ています。

以前見た版と比べると、まあダンスっぽいシーンとか減ったかなとか、帝の棒の下で辛抱するあたりの演出の違いとか、いろいろと変化はありますが、筋書きそのものに違いはないので、最後の夜長姫が桜の中に埋もれていくシーンの切なさには、感情が大きく揺さぶられます。野田さんの書く戯曲のすごさは毎回のことで、特にこの作品は夜長姫と耳男の愛と、満開の桜という場が見せる孤独と虚無、あわせて国というものが持つ空虚さを見事に掛け合わせたものになっていると思います。

評価が高いのは、そういった描きたいものが野田さんの作品では比較的わかりやすいということや、演劇という表現装置の中で、夜長姫と耳男という二人の関係性が、桜の演出も含めてよりドラマチックに描かれているということもあるかと思います。本当に妻夫木聡さんと深津絵里さんの二人の演技には感謝です。

ほかにも芸達者多数で、大倉孝二さん、藤井隆さん、池田成志さんの鬼役は、場面的にも配役的にも絶妙なバランス。鬼であり人になり、どちらにもなりうる存在という意味でも印象深いです。アナマロ役の銀粉蝶さんは、あの声が響くと役柄にピッタリでした。ほかに村岡さんとか秋山さんとか、揃いすぎですね(笑)

野田さんは国家論みたいな部分、いろいろな作品でいろいろな形で描いてきています。実体のない空虚さもあれば、「逆鱗」の時のような無常さもあります。同時にその周りにいるはずの人も描いていきながら、野田さんなりのいろいろな枠組みに対する気持ちが見えてくることが、作品として見ていて非常に楽しいです。個人的にうれしいというか、その有形無形のものに対する「意見」や「見解」ではないところが好きです。以前の作品「エッグ」でもハッピーエンドではないけど、でもそれが一つの歴史であり、流れの中での出来事として、主人公の末路が描かれています。ハッピーエンドではないけど、バンドエンドでもない。そうではなく、その舞台上で繰り広げられた出来事すべての世界を丸ごと受け止めるという感じです。

あまりうまい説明をしている感じがしなくて、こういう時に表現力とか、知識のなさが非常に恥ずかしいのですが、一つの恋愛だったり人生などを描く作品もあれば、こうやってもっと大きな枠組みに、ぽいっと石を投げてその様子を見せてくれるような作品を提供してくれるうまさに感服するしかない野田秀樹さんのすごさ、役者さんのパワーだったと思います。

次回の公演は来年の秋、、、長いなあ、、、。