雨の中を泳ぐ日々

思いつくがままの気分の記録

中屋敷版「半神」の感想

f:id:unimasa:20180715120712j:plain

先日、タイミングがあったので見てきました。

www.hanshin-stage.jp

野田秀樹さん初期の傑作の一つといわれる「半神」の再演です。今回は新たに劇団「柿喰う客」主宰・中屋敷法仁さんの演出で、シュラとマリアの二人に乃木坂46桜井玲香さん、日本舞踊の藤間爽子さんでの公演となりました。

昔の夢の遊眠社版、野田地図版も見てきているので、非常に興味深い公演でした。懐古厨にならないようにと思いつつも、実際比較が入ってしまったりというところもあるかもしれませんが、少し感想をまとめておこうと思います。

SNSには一度書いたのですが、いかんせん内容が不十分だし、日本語がひどかったので、改めてまとめておきます。

一応、隠しておきますね。

 1.演出について

「半神」の初演は劇団「夢の遊眠社」で1986年です。すでにその時から、32年経っています。時代は変わって、人を取り巻く社会変化が進んでいます。萩尾望都さんの短編漫画を原作として、野田秀樹さんはそこに「孤独」と「救い」を強く盛り込んだ戯曲を萩尾望都さんと共同で作り上げています。

今回、再演にあたって中屋敷さんが、何を意図して演出するのかが、非常に興味深かったです。野田さんは、六次元という異世界を通じてシュラとマリアを二人とも生かす。漫画版をもとにシュラとマリアのつながりを心の入れ替え以外にも考えて戯曲を作っています。漫画版におけるどちらも生き残るという部分に、アレンジを加えました。その中で野田さんは「孤独」と「一人」「相補完」「対称性」というキーワードを活かすべく右回り・左回り、螺旋階段(DNAの暗示)・ベンゼンといった言葉・舞台装置を使って、シュラとマリア、先生と数学者の関係性を見せていきます。

今回の中屋敷さんは、そのあたりは基本構造は崩さず(戯曲は基本ほぼ同じ)、身体表現とせりふから、このシュラとマリア達の関係性を意識させる演出を取っていました。まず大きく違う点は、シュラとマリアの衣装がつながっていないこと。これが一番大きいと思います。この作品は序盤にある「一人の間には入れない」とあるように役者二人の衣装がつながっていることで、シュラとマリアの一体と分離を観客にも強く意識させます。それがあるからこそ後半の手術あとの対比が引き立つのですが。

今回はあえてそれをなくして、主演二人の体の動きで見せています。試みは非常に面白いですし、主演二人は(特に稽古期間が短い桜井さん)は頑張ったと思います。この辺りは二人は大変だったと思います。衣装がつながっている演出のほうが、きっとシュラの焦燥は伝わりやすい。それでもあえて、二人の動きのシンクロで見せた努力は立派でした。シュラの醜さをメイクなどのビジュアルでなく(深津さんはすごかった)、セリフで見せるという点は成功したかは何とも言い難い。確かにセリフ回しでの努力が桜井さんにありましたが、後半の醜さゆえの「誰からも愛されないのに、誰かのために死ぬなんて、、、」という言葉の重みが強く出ていない印象が残ったのは、そこにも理由はあるかなと思っています。

さらに舞台装置においても、以前の公演では「螺旋階段」「六角形の箱」などを配置して、その対称性を意識させ、同時に衣装も色で人・人と化け物の中間(シュラ、マリア)・化け物という区分けを見せておき、手術後にそれがどう変化したか?を暗示するという仕組みをとっていましたが、今回はその部分もあったかな?と思いつつでした。

この辺りも意図的に変えているだろうし、変えたことがわるいではなく、そのことで舞台として伝える部分をどこに注力するか?という点では、野心的な試みだと思います。

筋書き上、最初を小学生に変えていることは成功だったか?はちょっとどうかな?と思いつつ。たぶんシュラとマリアが10歳にならずに分離したということから、野田版と変えてきた年齢設定にしたかと思います。序盤・ラストで「音を作る」というセリフの練習で反復させる場面がありますが、ラストはあの演技を見た後なので、セリフの重みが増しますが、そのあたりのバランスは今一つには思えます。

舞台装置における斜めのセット、ブロック状にしたステップを多数配置して、上下に役者さんが動く演出は面白かったです。SNSでもつぶやきましたが、化け物たちの視点が常に双子を上から見下ろす、見守るという意図が伝わってきます。役者さんは大変だったと思いますが(笑)。化け物たちが常に双子の様子を観察し、この世界に引きこもうとする。スフィンクスの出すなぞなぞの答えは常に「人」。その「人」になり切れていない双子は、人の世界にいられない、、、そういう中でシュラが人であることを叫び、螺旋方程式を解くことで生き残るすべを探す。そういう狙いがみえるという意味でも、違ったアプローチだったかなと。逆に螺旋階段や六角形の装置がないことが、対称性・相補完を観客に伝えるすべになっていたかは、先ほどの衣装同様に、身体表現・セリフで補うという意図でしょう。ここは少し難しかったかもしれません。特に情報がない観客には、ベンゼンとかDNA配列とかそういう話自体になじみが少ないでしょうから、なおさら対称性を装置で見せておく手段があってもよかったかも。役者の動きにそれを示唆するものがたくさんあったので、やはりそちらが狙いなんだとは思います。

あとは音楽、DE DE MOUSEさんが書き下ろしで劇中曲を作っています。どちらかというと明るめの印象。前半は良いと思います。最初のタンゴのダンスシーン含めて、スタイリッシュさが際立ちます。問題は後半かな、、、ラストシーンまでのところであの曲調がずっと流れていると、場面として描く「二人で一人」への流れでずっと音楽が流れますが、ちょっと曲調に感情が引きずられそうというか、バランスがとりにくくなってちょっと困惑しました。エモーショナルな部分を、楽曲がフラットな感じにしようとするのも、狙いなのかな?そこは「孤独」がマイナスとしての未来ではないという暗示も含めて。

全体的に戯曲を活かす(というか、変えない)中で、野田さんの表現したい・比喩したい世界や情報を、どう変化をつけて表現するか?という点で中屋敷さんはチャレンジしたなと。面白い部分もあるし、いまひとつかなという印象が残ったところもあります。

SNSにも少し書きましたが、模倣ならやる必要はないし、あくまでリプロダクティブなものであるべきだと思います。32年前に初演した作品を、ものすごく有名な作品をこのタイミングであえてやることの意味は、どう現代的な視点を盛り込むか?です。

自分としては、野田版からの要素をいくつか変えたことによって、より「人は一人である」という現代的な要素は強まったかなと思っています。身体表現でシャム双生児を描く、本質的には最初から一人の人間である、単に身体的結合に過ぎないという部分が強く出ている。そのことがラスト付近のセリフ「そうすれば人はそれを霧笛とよび、それを聞く人は皆、永遠というものの悲しみと、生きることの悲しみを知るだろう」という部分をより引き立たせているのかなと。比喩表現が装置から減ったことでのマイナスを身体表現やせりふでうまく補えているかは、ちょっと微妙かなと思いました。情報量が多い作品から、メタファー要素を省くのはチャレンジですよね。観客次第という部分が少なからず残った気はしています。

 

2.役者について

全員はちょっと評価しにくいので、簡単に。

まずは桜井玲香さん。バスラもある中、あれだけの完成度で持ってきたのはさすが。女優さんとしての力量は、相変わらずの高さです。シュラ・マリアの身体表現も見事に演じていました。

以前「松子」でも評しましたが、桜井さん自身が「感情」の部分で「役柄を自分に引き寄せる」演技をするので、これは良し悪しだと思います。感性としては良いのですが、それを即興的に行う部分があるので、「松子」の時も周りの役者さんは対応するの大変だったかも(笑)

今回の役「シュラ」はそういう要素がなく、あくまでシャム双生児としての、孤独・愛への渇望を見せなければなりません。セリフや動きがどうこうという部分には全く不満はなく、先ほどのメイクも含めてなんですが、その渇望がどうも今一つガツンと来なかった印象が少し残っています。たしかに深津さんのシュラがすごすぎたってのもあって、比較している気はしますが。生き残りたいシュラ、愛されたいシュラ、マリアが邪魔だけど、本当は一緒に生き残りたい、でも手術室から出られるのは人になった一方だけ、、、この辺りがどう伝わるのか?っていう時に、感情の叫びというかそういう強さみたいなものが前面に出てきていないのは、演出なのかな、、、そこが自分の感じた物足らなさかなと。贅沢かもしれませんが。

でも、「松子」のときの演技も正直、途中は素晴らしい憑依というか、役と本人のシンクロがすごかったのですが、ラストの自暴自棄になって、酒を飲んでいる自堕落な生活の部分は、若月さんのほうが、迫力を持っていたりする。それは過ごしてきた生活の違いかもしれない。生田さんが「ロミジュリ」での恋愛感情の表現がいまひとつと言われたものと通じるところはあると思います。

シュラの渇望がどうしても、桜井さんの場合はうまいけどガツンと来ないのは、そういった感情の部分の強さをどこまで自分のものにできるか?だとは思っています。シュラの醜さや孤独、自分への愛情の渇望という部分で、いまひとつ迫ってくるものがないのが、残念ではあります。

マリアの藤田爽子さんはさすがに日舞の方だけあって、滑らかな動きが非常に目立ちました。そのあたりは桜井さんとの対比という点でもよかったです。無邪気とか無垢とか、序盤ではそういう部分を単純な言葉と動きで見せる必要があるので、カチッとした動き以上に滑らかさが必要だったと思います。身体は決して大きくありませんが、舞台上での見せ方はさすがだったと思います。セリフ回しは自分は初見ですが、特段気になったところはありませんでした。阿佐ヶ谷スパイダースでどういう演技をするか?が非常に楽しみです。

先生の太田基裕さん。たいへんでしたよね、このセリフ量。すごかったなあと思います。後半の感情の出し方(二人を救いたい)あたりは非常に熱演でした。シュラとマリアを同時に何とかしたいという部分は、なかなか伝えるのが難しい。戯曲上はそこを「愛」を教えるっていうスタンスで行くわけですが。あの辺りはすべて見ないとわかりにくいかもしれません。化け物とのやり取りあたりとか、時系列が少しぐしゃっとするので、あのあたりもリリアン絡めつつ(リリアンも編み方の対称性というメタファーだったりしますが)、頑張っていました。教師が「化け物」側にいるっていう部分は、野田地図版でもわかりにくかったです。黒い衣装を着ていることで、最初は人側にいますが、途中のリリアンのくだり、数学者が教師と同一人物であるというところから、推測していくのですが、このあたりは戯曲自体を読み込まないとかなりわかりにくいし、自分でもぼんやりとしか掴めていないところです。

数学者の松村武さん。野田さんとの対比はある意味、チャレンジだし、非常に大変だったと思います。セリフ回し一つとっても比較されるし。少し真似をした部分とかありましたが、結局は普通に演技をしていたと思います。ドクターと数学者の双子という設定は、元の戯曲でもわかりにくいので、これは原作を読んでいるほうが理解しやすいところ。自身が演出家でもあるから、この戯曲をどう演じていくか?って難しかったと思います。手術後のドクターとおじいちゃんの混濁などは、見ているこっちも大変ですし。そういう点でも、中屋敷さんが必要以上に色を付けずに、この役を松村さんに演じさせたのは、キャリアという点からも正解だったと思います。

3、総論

情報量の多さは、この芝居に関してはポイントかもしれません。知らないからダメということではなく、知っていると野田さんの戯曲の中でのメタファーへの理解がより進み、意図している「孤独」への渇望、「愛」への欲求と同時に「他者と個」の関係性なども見えてきます。

今回は最後の「シュラかマリアか?」という点において、あの曲を使ったことが、未来への明るさも示す、つまりハッピーエンド的な要素も含まれていると、勝手に解釈しました。心を交換した二人が一方は六角形の向こうに行き、もう一人は人として生きる。「孤独」になることが「人」として生きる正解なのかは、わからないが、「シュラとマリア」は心を交換したことで「孤独でもあり、二人でもある」という。そうやって二人が生きていく結末が、どう受け止められるかは人によって違うと思いますが、今回の「半神」の公演は、その二人の未来を新しい切り口で見せてくれました。

ある意味、粗削りな部分もあるし、観客にとってやや困難さを要する部分はあると思います。しかしそういう観客側の五感を発揮して楽しむ舞台に、桜井さんが出演して、あれだけの演技と高い評価を得られるということは、彼女のキャリアにとってもよかったと思います。同時に役へのアプローチという点での、新しい課題も見え隠れしたかなと思っています。でも、藤間さんとの配役というのは非常に正解でした。彼女の柔らかさがよい意味での対比をうまく作っていたので、醜さをビジュアルで見せずに進めるという演出が可能になったと思います。

また違う人が違うキャストで、この戯曲を再演してほしいですね。こういう試みは非常に楽しいです。違う解釈・違う機軸、そういものを生み出してこその演劇だと思うので。久々に観劇できて、楽しい時間でした。