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Electric Sheep

徒然なる日々の記録

「すべての犬は天国へ行く」 2015.10.11 ソワレ

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前回の10.03のブログを読んでくださった皆様、ありがとうございます。

ニーズがあるかは別として、10月11日(日)のソワレを見て、一回目では見えなかった部分だったりしたことを簡単にまとめておこうと思います。

このあと、ナイロン版をDVDで見ますが、比較論はやめておきます。もちろんそれも面白いとは思いますが、演技論になってしまうのは、ちょっと厳しいので。

 

さて、まずはメンバーの演技について。

-生駒里奈

「メリィ」が彼女に一番の適役であったことは衆目一致だと思う。自分は「引き出しが少ない」と前回、表現しました。二回目を見て、演出の一端として生駒さんが普段見せるしぐさとか動きがそのまま舞台での動きになっているんだなと、少し見方を変えています。これはほかのメンバーの演技にも言えるのですが、この方針は多分に稽古不足という話にも行き着くかと、、、。逆を言えば、生駒さんの持っている表現力の範疇で収めることが出来たともいえます。芝居を成立させる上では、良かったと思います。物足りないのは、やっぱり生駒さんが今まで持っていなかった表現力で「メリィ」を見せることが出来ればよかったのかな?という部分です。だから生駒さんの世界に無い、一幕ラストの「一緒に埋めてあげる」が無邪気さと狂気を垣間見せるシーンとして、印象に残るんだと思います。

 

-伊藤万理華

クレメンタインという意地悪な役は、伊藤さんの演技力でかなり一本筋の通ったものになっていました。前回、発声の件を指摘しましたが、性格の悪さとかと意識させるために、意図的に抑揚をつけているのかな?と思いました。でもだとしたら、伊藤さんは声質が若干通りにくいのと、さ行が聴きにくいときがあるので、もう少し演出で工夫しても良かったかなと。一本調子になっている感じがします。ただ、すごく舞台上での表情などは工夫していて、大好きなボレーロ先生(に扮したキキ)への表情とか、目の動きなどは、クレメンタインの一面性を感じさせることに成功していました。それだけに意地悪な部分の一本調子が続いて、最後のメリィを殺す場面からの自殺(?)はその感情の動きがつかみにくいままになってしまう。あの場面は伊藤さんの問題だけではないかもしれませんが。その部分はもったいない部分でした。メリィを殺したのは、メリィがあの「空虚な村」で生活するには、母親エバの存在が不可欠で、その母親がいない状況では、メリィは「天然の狂気」以外の生活しか出来ない。そういう意味でも邪魔だったのかな?と。でも我に返って、自分が嫌気が差してきていたこの村の状態に戻ろうとすることが嫌になって、命を絶つ(?)なのかな、、、*1

 

-井上小百合

エルザですが、TL上でも賛否少なからずあって、「井上さん」のままという意見も散見しました。自分も3日の時点で同じ指摘をしています。声がずっと同じトーンだからかな、、、?とはちょっと思いました。あとは村の住民に矛盾を含めて突っ込みいれる間合いや表現が、多分乃木坂での井上さんと違いが無いからでしょうか。後者は二回目を見て、仕方ないというかそこまで作りこめるのは難しいなあと。完全に作り上げる必要があるので、そこまでの余裕は無かったかもしれません。そうかんがえると、やっぱり井上さんの演技力でカバーできた部分が大きくて、その上でエルザが出来上がったかなと。前者の声のトーンは、声質もあるので難しいですが、多少は改善できたんじゃないかなと。「よそ者」、「村に取り込まれたエルザ」という違いは工夫次第で、エルザの多面性を見せることができたので、そこは惜しいところ。最後のビリーとの対決は、声の感じ、しゃべりのトーンも変化がついていてよかったと思いますが。あそこまでは「よそ者」というスタンスでの演出なのかなと。

 

-斉藤優里

ガス役ですが、まあ実際TL上でも「非」という内容が少なからずあったと思います。現状での彼女のフィールドではないという表現を自分もしましたが、やっぱりちょっと大変だったろうなという印象です。それは「怖いはずが、実はただのポンコツのガス、でも怖さは一応見せる」という図式にうまくはまることができていなくて、「ポンコツで実はいいやつ」によりすぎているからです。ガスの所作はポンコツでいいと思います。痰壷周辺も半分はお笑いネタですから、あの演技でも問題は無いでしょう。手下が怖がるシーン(てんぷらは、ネタですが)、グルーバッハにナイフを突きつけるシーン、このあたりで瞬間的に切り替わらないと「怖さ」が無いままガスは殺されてしまいました。最初、あそこは婦人が本当に怖がる図式と認識していましたが、二回目を見て印象が変わっています。怖さはあるけど、ガスの本性を知っているから、多少の余裕と、婦人の「この村に悪いことは起こらない」という盲目的な信念(というか狂気)の裏づけで、完全に怖がってはいない。でもガス側に怖さは必要で、そのあたりがポンコツの勢いのまま、犬の死を悲しむ流れのままで演じているので、ガスのパートの手下の急変も意味が伝わりにくくなってしまいます。現状での斉藤さんのリミットだったと思うので、この経験が次にどこで活かせるのか?だと思います。

 

-桜井玲香

キキ、ボレーロを演じますが、今回の出演者の中で抜けてTL上でも絶賛でした。二回見て、印象は同じで「うまさはさすが、前半のキキはうまい。後半のボレーロ(に化けたキキ)はいまひとつ」は同じです。前回、首の傾きの癖っぽい話を書きましたが、前半での演技を見ると、意図的に顔を突き出すしぐさが増えているので、演出も多分にあるんですね。あごのラインがきれいなのでいいのですが(笑)。前半のよさはやはりキキの天然さが、桜井さんの天然さの表現とマッチしていることが大きい。自然な雰囲気が伝わります。占いのシーンの山下さんとの掛け合いも、間の取り方含めてうまい。あそこは芸達者な山下さん相手に堂々たる芝居でした。後半のボレーロはやっぱり「なりきっている」にしては、男が出ていないし、狂っているにしては「狂気がない」ので、普通に男装の女子で終わった感じがもったいない。台詞回しも含めて、そのままいくって感じで決めたんでしょうね。表現が難しいし。やっぱり、クローディアとのからみでいやらしさがないのが、マイナスなのかなと。

 

-新内眞衣

背の高さ、手足の長さ、舞台映えするはずですが、前半のカトリーヌは新内さんが抜け切らないまま、後半で出てくる「靴屋」はさらにもったいない演出でした。3日のときは、若月さんとのやり取りの場面はうまいなあと評しましたが、二回目に見ると、ちょっと物足りないというか、台詞自体に助けられている(ギャルっぽい言い回し)部分も大きくて、「この村から抜けたい」っていうスイッチの入った感じが、もうちょっと語気の強さだったりする部分から伝わるとよかったのかなと。後半の靴屋は、もっと残念で、真実を明かしたいという切実さがいまひとつ伝わらない。感情の一端が見えないのは意図的な演出もありそうですが、もう少し工夫があっても良いのかなというのが印象です。

 

-松村沙友理

前回は斉藤さんと並んで残念と書きました。二回目の印象は、やっぱり標準語の台詞は彼女には難しいという結論です。声のトーンがずっと同じです。抑揚がつけられないので、波が無い。つまり感情も乗りにくい。クローディアの変化が見えにくいのはそこかなと。最初の父の自殺を探るのが、そもそも純粋な動機なのかも微妙ですが、その部分も単にリピートにしか見えない。壊れている側なのかどうかも見えにくいんですよねえ、、、後半父が死んでいないという変化も含めて「狂気の側」へのスタンスの変化は見えないし、彼女は「舞台に立つ」ことで大変だったのかなと。「じょしらく」のような等身大に近い言葉が乗る役でないと、今はまだ厳しいのかなと思います。

 

-若月佑美

さて、一番評価が難しい。ただし下手ではなく間違いなくうまい。舞台に登場したすぐに、ステファーニャが放り込まれた倉庫にちらりと目を配るしぐさひとつとっても、彼女の舞台上での工夫や、観客に見せるための演技は、経験の多さがその表現の幅の広さにつながっています。やっぱり狂気を見せる入り口で終わってしまう役どころがもったいない。大事な役で彼女が最初に狂った住民の素顔を垣間見せるので、そのインパクトは若月さんならではのものが大きい。それだけにもっと舞台にいて、その狂気を見せて欲しい。役どころも「村から出て行く人への嫉妬」「狂気に生きることでのバランスを保つための殺し」みたいな部分がもっと引き立つといいけれど、そこまで深くは描かれていなかったので。

 

というのが、各メンバーの演技についての感想です。なが、、、、、

客演の皆さんはいずれもすばらしいというか、乃木坂メンバーが練習が少ない中で、客演の方々のおかげで緊張感が持続した部分は大きいです。個人的にはやはり猫背さんのうまさはピカ一でした。カミーラでもあり、ビリーでもある振る舞いはさすがで、特に最後のビリーの振りをしたカミーラ。エルザの告白と同時にスイッチが入るのですが、あそこの流れが良かった。エルザはビリーの娘という時点で、カミーラにとっては自分の世界を邪魔する存在だったから殺すという解釈をしていますが、あそこは逆にビリーというに見えてはいけない部分でもあるので、猫背さんのしぐさや声の出方がうまいなあと。デボアの鳥居さんは、やっぱり声が通りますね、さすがライブ経験豊富なだけある。役柄も狂言回しというか、この村の生活を一番うまく受け止めてる感が伝わってきました。最後の犬の声が聞こえるくだりで、急に狂気を垣間見せる変化はさすがでした。

 

Twitterで結構やり取りして楽しかったのは、エンディングでなぜリトルチビを殺したのか?とラストの解釈が「この村の生活の継続」なのか「終了」なのか?という部分です。

「リトルチビ」という少年(実際は少女)を着替えさせたことで、女性であることが、この村の「来ない人を待つ」という「狂気の連鎖」に取り込まれることを意味していると思います。エリセンダがチビを殺す理由に正解はありませんが、自分はチビは象徴でもなく「蛇」であって、死ぬことでそれでもなおかつこの村の「空虚な生活」は続くということを示唆しているのかな?とか思いながら見ていました。結構、「狂気の終焉」という意見も多かったみたいですが、自分は前回も書いたように「ゴドー」の世界観があると思っているので、待ち続けることでの虚無性みたいなものを描いているんだろうなあと思っています。エリセンダにとっては「蛇」は幻覚で見えるものであって、彼女の日常には存在しない。だから殺すことで、日常のバランスが保たれる、、みたいな。同時にあえてチビの死に何か象徴的なものを見出すとするなら「終わりの始まり」みたいなものかなと。すでに子供は何人かが肉屋で処分される村です。チビが死ぬということは、将来の大人になる女性がいない、つまりいま生きているエリセンダやデボラ、クローディアなどが、狂気の中で生き続けるということになる。歳を重ねることになっても、老いた人々が待ち続ける狂気に生きる、、、そして老いて死んでいく虚無、、、終わりへ踏み出していくという意味に取れなくもないです。

解釈はいろいろです、自分なりの答えを探してください。

多分、ほかにもどう受け止めればいいのか?は最後の犬の鳴く声は何?とかいろいろあるかもしれません。各自、自由に解釈していいと思いますが、ぜひ表面的な安易な流れだけを追わずに、人の心の変化だったり、業みたいなものだったり、戯曲世界が描こうとしている「その世界の人々の感情のゆれ」みたいなものに意識を傾けて考えて欲しいなあと。それが演劇の大きな楽しさのひとつでもあると思うので。

*1:勝手な解釈、ちらほら出ますが、まあそのあたりに正解は無いので。