Electric Sheep

徒然なる日々の記録

「じょしらく」の簡単な解釈らしきもの

ちょっとだけ、気になっている部分の解釈を。

完全なるネタばれなので、これから乃木坂46じょしらく」を見ようという方は、これから先を読むのは止めた方がいいです。

 

まず、中盤での手寅→アイドルのテトラと、魔梨衣の出会いと会話あたりから、話を入れ子構造にしていきます。お互いの立場を理解できていない(相手をそれぞれ、アイドルとしての魔梨衣、噺家としての手寅と思っている)から、会話がかみ合っていないシーンが続きます。ただ「人を笑顔にするのはうれしい」という共通認識だけはあって、そのシーンは終わります。そのあたりからは、魔梨衣は「自分は噺家である」という部分に少し「?」がつくようになる。つまり、自己存在の疑問が生まれていきます。

そして、アイドルとしてのマリーが、噺家の魔梨衣のチラシを拾って、ここで二人の世界が合わさる?それともパラレルワールドへの転換を意識させるような描写を見せます。

最後は魔梨衣はアイドルのメンバーに会うが、話がかみ合わない。アイドルたちは逆に噺家を演じているという解釈のもと、話を続けるので逆に自分が噺家であると思っている(徐々に疑うが、、、)魔梨衣が「自分は演じている」という認識が芽生えつつのなか「演じていないのか?」とアイドルのテトラたちに問いかける。そこで返ってきたセリフ「舞台を降りてからが辛い」という言葉を受けてのラスト「噺家は話を落とすが、アイドルとしてこれ以上落ちてたまるか!」

で終幕。

セリフだけ見たら、ラストのセリフはオチにはなっています。特に今回は松村さんが言ったことで、文春のスキャンダルと重ねて言わせているなあと、観客は理解したでしょうし、自分もそう思っています。脚本家の意図は少なからずそこにあると思います。

問題はアイドルとしてのメンバーと、噺家として(つまりじょしらくのキャラ)の融合というか、その二つの世界の重なりがうまくできていない点です。序盤の途中で噺家をアイドル風に売り出したら、、みたいなシーンがあり、そこから振りなんでしょうけど、わかりにくいを越えて伏線になりきれていない。そのあと、アイドルとして歌うシーンが出てきても、観客にはその演出自体がラストへの布石になっているという意味が見えないし。

原作を考えれば、何か盛り込まない限り、単調な芝居になるので仕方ないですが、伏線はきちんと回収の方向に持っていかないと、正直収束させた感じが全くないです。

魔梨衣はいるけど、マリーはいない状況を説明できていないし。まあ、舞台の話なので、細かいことは、、、という向きもありますが。

いずれにせよ、うまくまとまった感には乏しいし、これからの演者の対応次第かなとは思います。