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Electric Sheep

徒然なる日々の記録

「生きているものはいないのか」の続き

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一晩、経つといろいろ考えが広がってきます。マルクスの言葉にある「歴史が繰り返すとしたら、1度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉が連想されます。

まさにナナの死は、周りの人間にとって悲劇として始まりますが、死人が増えるとその日常と化した死に方が、滑稽にすらなってしまう。最後のミキの死に至っては出来事でしかない。生き残ったケイスケには、「生きている人を探す」ことが日常になってしまうことが、示唆されます。

「死」というものですら、人間は日常の中に取り込むことができて、その感覚に慣れてしまう、、、そういう日常の変遷として起こりうる一つの可能性をこの芝居は見せてくれていると思います。

難しいなあと思うのは、この芝居には「感情を見せる」場面はあっても、「何故、そうなるのか?」を提示していないこと。観客もこの出来事を観察している位置づけなので、いろいろな情報を推測しつつ、死者が増えるたびに、その死の重さや位置づけを考える必要があるのかもしれません。

親切ではないし、受け手の感覚も様々だと思います。

「何故、死んだのか?」を探る演劇もあれば、「人はどう変質していくのか?」を見せる演劇もある、そういう多様性の一つとしてこの芝居を思い返してみるのも、一つの楽しみ方かなと思います。