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Electric Sheep

徒然なる日々の記録

村上龍対沢木耕太郎

Sports

今回のオリンピックは沢木耕太郎朝日新聞の特派員という形で現地取材中。まあ、あの人を使わない手はないのでそこはいいのですが、沢木耕太郎朝日新聞(それとも週刊朝日?)に書いたマラソン野口選手の優勝に関する記事に、村上龍が異論を唱えています。
沢木耕太郎が今回のマラソン3人娘(?)対高橋尚子という構図を元に書いた文章・取材に対して、「実際に走ったことによって、競技者も観客も視聴者もある種政治的な出来事を消し去っているのでは?アスリートのパフォーマンスは負の要素を無力化する」という主張です。同時に沢木耕太郎のスポーツに対する「物語」の必要性について、ワールドカップでのベッカムのプレーを参考に挙げています。
まあ、感想はどっちもどっちでそれぞれの出来事にどういう物語を見るかは、その作者の想像力の範疇だと思うので、正解は無い。ただ今回はどちらに近い感想を持ったかといえば、村上龍よりではある。自分も今回のマラソンに関しては自分なりの感想をまとめるときには「高橋尚子ならどうだったか?」ということを考えるが、それは第3者の視点であって、少なくとも走り終わった野口選手にインタビューで「高橋尚子選手のことを考えましたか?」と聞くべき種類のものではないなと思う。
答えに澱んだ野口選手の反応を見て、沢木耕太郎は「その裏」を読み取ろうとするがそれは所詮想像に過ぎないであろう。少なくともレース中、高橋尚子は敵ではないのだから。選手達のパフォーマンスは確かにその瞬間は全てを忘れる力を持っていると思う。例えば男子体操の団体戦の最期、あの瞬間の演技に何の裏を読み取る必要があるか?純粋に感動すればいいことだと自分も思う。但し終わった瞬間に「物語」はまた動き出すけど。
沢木耕太郎のマラソンに対するスタンスは彼なりの「物語」の楽しみ方であったかもしれない。同時に書くための手段になっていると思う。残念なのは、純粋に楽しめるパフォーマンスに対しての見方にしては、その瞬間に近すぎたかなという所。かえって水を差した気がします。
ベッカムの足元へのタックルを避けたプレイに関しても、其処に勝利への意欲を欠いた一面と受け取ったようだが、逆に勝ちたいから避けた言うこともできるはず。そのスポーツに詳しいかどうかは抜きにして、それが語るべき「物語」なのだとしたら、つまらないものだなと思ってしまう。
好きな作家であっても、無条件に全ては受け入れられないものってあるもんだね。
(追記)こんな感想もあるみたいです。
id:rararapocariさんの所は非常に興味深かったです。id:ahtenaさんの所も、貴重な意見だと思います。逆に自分はかなり沢木耕太郎に対して、無条件にというか盲目的に好きなところが多いけど、物語を語るべきタイミングが違うだろうというスタンスです。id:takeshipさんも物語性の部分否定ですね、不必要なものはリアルタイムのスポーツには確かに不要かもしれない。逆にid:shionoさんの見方もあって、政治的な結末って残るなということもまた実感。